就労ビザとインドでの生活-インドで現地採用となった日本人

 インドで現地採用となった場合、通常は就労ビザ(Employment Visa)を取得する。就労ビザはインド人だけでは遂行できないと判断される業務に従事する外国人高熟練労働者に対して、発給されるビザである。しかし「高熟練」といっても具体的な定義はなく、何を根拠に高い技能とするのかは不明確である。政府の意図としては、インド人が担える労働を外国人に奪われないための文言だろうが、実際には新卒でも雇用されるので必ずしも高いスキルを持っていなくても発給されている。加えて他国では最終学歴による制限なども設けているが、インドでは高卒であっても就労経験があればビザは下りる。また就労ビザは雇用主が変わると、つまり転職すると新しいビザを申請しなければならない。

 RGFインドによると、今のところ企業の採用が決まり、必要書類を提出すれば大使館でビザ申請を却下されるケースはほとんどないという。

 筆者の元同僚も、ある会社に入社して半年以内に前の勤め先から高待遇の条件で戻って来いとのラブコールを受けた。戻りたい気持ちはあったが、半年で転職を2回もするのは大使館への心証が悪いであろうし、ビザ発給を拒否されるのではと危ぶんでいた。しかし、退職後に難なく新しいビザを手に入れ古巣に帰っていった。

 就労ビザ発給には最低所得条件が課せられている。2010年11月より、企業側は現地採用を雇用する際に、年間2万5,000米ドル(約13万ルピー)の最低所得を保証しなければならなくなった。自国民の就業機会が逼迫していることもあり、高い所得基準値を設けることで、企業がのべつ幕無しに外国人を雇用することを抑制しようというのが狙いだ。一日に最低10ドル以上のその可処分所得を得ているのはインド人がわずか人口の5%しかいないことを踏まえると(2014,The Hindu)、2万5000ドルの給与基準は非常に高い。

30代以上の結婚への「ありつき方」を考えてみた

 人生あっという間に過ぎる。

 

私も知らないうちにいつの間にか31歳となり、周りが結婚、出産し、続々と家族を創っていくのを尻目に、一人なんとなく「結婚はできないかもな」と、ふと最近考えるようになった。

小さな頃、というより20代半ばまでは漠然とそのうち結婚するだろうと高を括っていたのに、実際には結婚ということがこれほど難しいものだとは予想外だった。

さて、そういうわけで最近結婚に関する本を読んだ。

タイトルは「崖っぷち高齢独身者 30代・40代の結婚活動入門」である。タイトルの悲壮感に惹かれ手にとって見た。

「高齢独身者」とは著者の樋口康彦氏が平均初婚年齢を下に定義づけたもので、、男性38歳以上、女性33歳以上の独身者の事を指す。彼自身何といっても、自らをモテナイ中年オヤジ代表(そこまで卑下してなかったかな)の完全「高齢独身者」だと自身を憫笑している。

著書は彼の114回のお見合いパーティと5年間の結婚相談所での経験を基にして書かれたもので、結婚するためのアドバイスが沢山あり、もて・ない男君やもて・ナイ子さんなどにはよい実践書である。

この中で興味深かったのは、筆者が結婚相談所などを通して出会った女性の多くが、社会的なマナーをわきまえてなかったり、コミュニケーション弱者だと指摘していることだ。例えばメールなどでも、質問しているのにその返事をまったくスルーしたり、言葉のキャッチボールができない。デートの約束をしても、3分の2くらいの女性は遅刻してきたという。

 

そのような経験を踏まえながら、樋口さんは職業や年収と結婚率の相関関係を指摘し、社会への適応力のなさと結婚できないこと、または仕事に就けないことの問題根っこ繋がっていると喝破する。

つまり、コミュニケーション力やマナーがないので、仕事もできない、または仕事が無い。コミュニケーションできないので、異性に対してモテナイ、の方程式である。

 私も、最近低所得者のための出会いの場を考えようセミナー、みたいなものに参加したのだが、30代から40代の男性が数人いたが、みな話すときには目を見ず、なんとなく挙動不審なのだ。これではチームでの仕事は無理だろうと思ったし、女性も寄ってこないだろう。また、どうやって交際相手を探しますかの質問に、参加者の40代くらいの自称無職の男性が「相席屋に行きまくってる。数十回アプリ使って行ってる。今は、相席屋の後で、女性を2次会まで誘ってOKもらうのが目標」と、自分の非モテさをさも誇らしげに語る人がいた。自分はモテナイと公言する男には女は全く魅力を感じないというのに・・・。

 

つまり高齢独身者の男性には、その人の「キャラ」自体が、e.g.挙動不審キャラ、ぶっちゃけキャラetc、すでに女性を遠ざけてしまっている。まして仕事が無いや、社会的地位が低いのであれば、なおさら女性は寄ってこない。

 

また樋口氏が驚いたのは、30代半ばのピチピチ感を失い、容姿も格別秀でているわけでもない普通の30代半ば「おばさん」高齢独身女子も、結婚相手に求める条件で妥協しない人が多いらしい。彼自身の経験からとったデータでは、お見合いパーティに出る女性の60%以上が派遣会社や契約社員、またはフリーター、ワーキングプアだという。20代前半のとびきり美人であれば、仕事や社会的地位に有り余るアドバンテージをもって結婚までありつけるだろうが、30半ばを過ぎて容姿にも衰えが見える高齢者女子は、ある程度の妥協が必要であろう。そして、本当に結婚したいのであれば、やっぱり苦手であってもコミュニケーション力を改善したり、社会的マナーを1から勉強しなくちゃいけないのだ。

 

 

 

求められるインド現地採用人材像と雇用待遇 -現地採用日本人の視点

  日本での就労経験が、日系企業が理想とする現地採用のキーワードだったが、その他に業種・職種を問わず求められるスキルが、やはり「英語力」だ。これは外資系企業に就職する際にも、もちろん英語力が問われてくる。もちろん業種や職種によっては、英語力があれば望ましいというレベルにとどまり、必ずしも必要としないという求人案件も多少あったが、最低コミュニケーションレベルの能力を応募資格条件に課す企業が多い。これは言わずもがな、インド人社員や他の国籍の社員と意思疎通を図り、業務を遂行する必要があったり、生活に支障のない程度の英語のスキルが必要だからだ。本当に英語を使って毎日勝負をしていかなければならない。TOEICでいったら600点台からだろう。ただし、英語を使って仕事をするとは言っても、皆が皆英語がものすごく堪能なわけでもない。筆者のように通訳や翻訳という言葉を売りにする業種以外なら、多少英語が怪しくてもなんとなく自分のいいたい事が伝わるレベルであれば、現地採用で十分仕事もできるし、通用する。

 社会人経験を有し、英語力がある。以上この2点をクリアしていれば、業界を問わず概して、インドでの現地採用の可能性はかなり広がっている。日本とは違い、売り手市場のインドの雇用状況では、大手商社も日本よりもかなりハードルが低く採用されるのも魅力の一つだ。それに応募条件が厳しくなっているとは言いつつ、まだまだ現地採用希望者の数が不足しているインドでは、「日本人である」ことでマーケットバリューはかなり高い。そのため、エントリーレベルで新卒社員を採用する企業も存在する。

 

   日本よりも海外で働きたいと考えている、日本の学生にとってはチャンスの国かもしれない。諸外国と違い、インドの場合は社会人経験がなくとも新卒でも就労ビザが発給される。さらに学歴条件も寛容であり、高卒であっても就業経験があればビザ取得が可能であるため、他国と比べて緩やかなビザ発給条件だ。

求められるインド現地採用人材像と雇用待遇 -現地採用日本人の視点

さて話を現地採用の平均像にまた戻すが、いったいどのような職種や業種のポジションが求められているのだろうか。

 インドで日系企業から外資系、インド企業まで日本人労働者を公募する職種は、日本の花形産業である製造業を中心に、インドの基幹産業のIT関連からサービス業、商社まで横断的に拡がっているという。多様な職種に応じて業務も枝分かれしているが、注目すべきことは、日系企業に関しては、特定の業務に対し現地採用の性別の嗜好がはっきり分かれてくることだ。RGFインドによると、日系企業が総務や秘書などのアドミンの職種は企業は女性を、製造業は男性を求める傾向にあるという。日本のオフィスを眺めても、マネージャークラスになると男性で、その補助的役割をするのは女性であり、製造業は男の世界となっている。日本でジェンダー化されている職業が、海外の現地採用の雇用慣行にそのまま踏襲されていると言ってよい。

 日本人現地採用になるのは女性のほうが多いと話したが、企業は女性労働者を歓迎し積極的に採用しているところが多い。この背景にはそもそも現地採用になりたいと望むのが女性が多いため、企業側は男性を雇いたくても候補者がいないという、消極的理由もあるだろう。しかし、同時に男性よりも女性を雇用したいという積極的理由も絡んでいる。

 一つ目の理由としては、インドの駐在員とその日本人顧客の大体が男性であることから、現地採用には彼らの「目の保養」になる女性が好まれるという事情がある。つまり男性駐在員のアシスタント的な役割として、日本のビジネス事情を知っており、気配りや配慮ができる日本人女性が好まれるのだ。大手人材派遣会社に問い合わせてみると、派遣会社のほうでも性別嗜好は応募条件に記載することをはばかっており、日系企業のほうも日本で性差別に考えられることなので、体面を気にして公表はしないが、実際には性別で振り落とされるケースもあるとのことだ。

 インドでは見当たらなかったが、他国での現地採用の求人案件を幅広くチェックしてみると、ベトナムのとある日系企業の秘書のポジションの応募資格条件に「女性らしい気配りができること」と書かれていた。「女性らしい気配り」をどう解釈すればいいかは謎であるが、ジェンダーによる明確なプリファレンスを象徴する一文ではある。海外進出先で「日本的なもの」を重視する日系企業が、日本の性別役割を海外の現地採用の雇用ルールにも適用しているのは、日系企業らしいといえばらしい。

 女性が現地で積極採用される二つ目の理由として、多くの企業が適応力は女性のほうが高いと考える傾向があることも関係する。海外就労となると、文化や環境の変化に耐えられる精神的・肉体的にもタフな人物でなければ難しい。人材派遣会社によると、男性よりも女性のほうがタフで、海外長期滞在にも適応できる柔軟性を備えていると企業側が思っているふしがあると話す。

 なぜ企業側はそのように考える傾向があるのか?そもそも女性現地採用の人口が多いので、現地で力強く生活している女性たちを雇用側も多く見てきているせいで、男性よりも女性のほうが冒険心があり、適応力があるという刷り込みがあることが推測される。男性でも様々な環境に何の抵抗もなく入っていける人もいれば、女性でも新しい環境に全く慣れることができない人もいるだろう。ただ筆者の考えでは、現地採用企業側がもつ性別による異文化への柔軟性のステレオタイプは、にわか外れてはいないように思う。

 随筆家の中村うさぎ氏によると、男女で社会的に異なる行動パターンがあると言う。日本社会は、男性は一家の「家長」として妻を迎え、女性は夫の「家」に嫁ぐ家父長制を敷いているが、この制度の下で男性は強固な自我を形成し、外の世界を積極的に変革する志向を有するようになり、逆に女性は柔軟な自我を形成し、周囲に対応できる素地を身につける。というのは、男性があまりにも外の世界に受身な自己を持ったのでは、「家長」の役割を担うのに心許ない。反対に、女性の場合には自己が堅固に確立していると、結婚して嫁いだ先で新しい環境に適応できず、不具合が生じてしまう。そのため社会の文脈のなかで形成された男女の行動習性の違いが生まれ、それは新しい環境に適応する際に、男女でその対応の仕方は大いに異なってくる。もし新しい環境が自分の理想と現実との間に乖離がある時に、男性の場合は現実の環境を変えたがるのに対して、女性の場合は自分の理想を放棄するか、または自分自身を変革することで、外界との妥協点を見つけるという(中村、2007)。

 この理論を海外就労の状況に当てはめてみると、企業が柔軟性の面で女性を採用したがるのも少し理解できる。現地採用は日本で一旦就労を経験した後に、海外で就労するパターンが一般的だ。ある程度の日本で仕事を経験を持った者が、勝手が全く違うインドの中へ入って、生活から仕事、考え方の違いと常に新しい物のなかで対応していかなければならない。女性の場合には、環境の変化にも対応できるように幼いころからそのつもりで育てられてきているので、異なる環境へぐにゃりと融和してしまう。逆に男性は海外就労地において、自分の快適な環境作りへ外部を変化させることにベクトルが傾くため、許容可能な環境の閾値は女性のよりも低くなる。

 以上の理由により、女性が活躍できるポストが多数用意されているのが現地採用だ。前述したが、インドで大手人材紹介会社が出す現地採用の求人票には、日本の男女雇用機会均等法に則り、性別の好みは公表はされていないが、内実は磐石にポジションや駐在員の好みに左右した男女での採用パターンの相違は存在する。

求められるインド現地採用人材像と雇用待遇 -現地採用日本人の視点

それでは、日系企業が好んで雇用する現地採用の平均像を描いてみよう。

 人材派遣会社数社の意見を総合させると、20代から30代の現地採用が最も多い年齢集団であるが、それに限らず40代から60代まで幅広い年齢分布を見せているという。60代で日本で定年を終えた後に、現地採用でインドで働く、そんなバイタリティに溢れた人もいるのかと驚いたが、かなり限定的にピンポイントの目的で雇用されるパターンだという。これまで長年培った経験を活かし若手では責任過重で遂行が不可能な、たとえば、新規プロジェクトを立ち上げる指揮・監督者の責任を担うポジションに充てられる。かつてインドに駐在していたとか、技術士数十年のベテランなどの豊富な経験もつなど、異文化環境にも耐性があり、加えて専門的な技術や知識を持つ人が採用されるという。インドは日本の生活と大きく異なるため、比較的高齢の労働者を現地採用として雇う場合には、企業側も受け入れ態勢を万全に整える。会社が住宅を提供したり英語ができない者には通訳をつけるなど、できるだけストレスのかからないように、さまざまな福利厚生がセットになって雇用される。

インドの現地採用のほとんどが日本で社会人経験を積んできた者であるが、学校を卒業後にいきなり海外で働くことに抵抗を感じるのと同時に、日本企業の場合には社会人未経験の全くの新入社員を採りたがらないというのも関係している。前述したように、現地採用の需要が発生したそもそもの理由に、日系企業が完璧にはローカライズできない日本的「気遣い」や「気配り」などに付加価値を置くため、日本人労働者を重宝してきた背景があった。なので、新卒ではなくある程度ビジネスマナーがあって、日系企業での働き方を知っている使い勝手の良い現地採用のほうが好まれる。これは言い換えれば、業務内容のスキルや能力とは全く関係なくして、日本の企業風土を知ってさえいれば、日系企業においては日本人現地採用のマーケットバリューはぐっと高まることを意味する。反対に、たとえ優秀なスキルを持っていても、日本での就労経験がないことは減点要素と見られてしまう。

 その例として、インフォーマントの一人正子さんの経験を紹介しよう。正子さんは某外語大学で日本語学科を卒業後すぐインド人男性と結婚し、インドに渡った。結婚、出産で子供を手を離れたことから、親戚の紹介で日印IT合弁企業に入社し、キャリアをスタートさせた。会社創立初期からヒンディー語、英語、日本語を駆使して、通訳やマーケティングなど幅広く業務をこなし、日本とインドの仲介役としてプロジェクトマネージャで、インド人十数名を監督する立場にあった彼女も、しばしば日本人顧客の嫌味には腹が立ったと話す。日本人ビジネスマンに、交渉の際に何か提案をしようとすると、「でも、あなた日本で働いたことないんでしょ?」と日本式のやり方では正子さんの考えは通用しないと暗に言われ、提案を聞いてもらえないこともあり悔しい思いをした。このため、13年間IT会社で勤務した後に転職の際には、日本で就労経験がないことの引け目を克服するために、日系企業勤務の希望で転職活動を行い、現在は財閥系大手商社に勤めている。

 

 日本で社会人経験のある日本人にとっては、日系企業が「日本式」に固執することは、非常に有利でありがたい話である。しかし、会社の競争力を考えた場合に、果たしてそれが利益になるのかは疑問である。日本語を知らない、日本のビジネスマナーを知らないというだけで、優秀な人材を逃している可能性はないだろうか。日系企業は海外進出するにあたり、「日本のやり方」や日本型ビジネス至上主義について少し柔軟なスタンスを取るべきだろう。

 

求められるインド現地採用人材像と雇用待遇 -現地採用日本人の視点

   ここからは、インドの現地採用について焦点を当ててみよう。インドの現地採用として求められる一般的な人材像と、現在の現地採用雇用動向について描写していく。

 他の研究で明らかになっているが、香港やシンガポールで就労する多くの現地採用日本人が女性である。同様にインドでも現地採用は女性就労者が多数派を占め、大手人材派遣会社のリクルート・ホールディングの海外事業会社であるRGFインドによると、登録者の8、9割の現地採用は女性だという。

 ではなぜアジアの現地採用に女性が多いのだろうか。この差の原因として、日本の雇用環境が背景にあると香港の現地採用を研究した酒井が話す。日本の企業はいまだに男性が中心であり、女性が周縁的な位置に立たされている。日本の雇用制度では非正規雇用者は、組合員資格がない、長期勤続でも賃金の上昇が見込めないなど、正社員とさまざまな違いがある。女性と若年者の多くが非正規労働者として雇用される現状がある。平成26年版「国民生活基礎調査の概況」の調査では、男性の非正規雇用の率が22.2%なのに対し、女性は57.0%と2.5倍以上多い。更に平成26年民間給与実態調査統計によると、男性は514万円に対し、女性は272万円であった。これには、配偶者扶養枠内の「所得103万円/130万円」以内に意図的に収める例もあるので、この数字差を額面どおり受け止め男女の経済的格差を論じることは危険である。それでも社会的に女性が男性よりも労働市場で周辺的な位置に立たされていることを、ある程度証左している。

 アジアでの現地採用の場合、現地採用国の物価水準にあわせた賃金なので、日本よりも給与が少なくなることがしばしば発生する。しかしもともと日本で安価な賃金で雇われている女性とっては、海外就労した場合でも、経済面で男性よりロスが少ないということになる。更に、日本の雇用システムでは頻繁な配置転換が伴うことが多く、そのような条件を呑める環境で昇進していく女性が少ないのが実情である(濱口、2009)。よって、キャリアの面でも一度海外就労することで受けるデメリットは、日本での社会的地位が低い女性のほうが少ない。

 

 但し、このような男女比率の差も近年変化が起きていると、別の某大手人材派遣会社インド法人の日系企業担当者は話す。全体としては女性登録者のほうが多いが、月によっては男性登録者数が上回ることもあるといい、さらにインドへの志望動機も徐々に変化していると担当者は話す。かつてはインド好きがたたり、その滞在手段として現地採用を選択していた人が大半だったのが、近年はインドの経済成長を期待してベンガル湾を渡ってくる人が増えてきたという。

インドの将来性に対する疑問②-現地採用日本人の視点

 言わずもがな公教育というのは、畢竟その国がどのような国是をもち国を発展させるかに関係してくる。すべての国民に自分の選択肢を開く糧を与えることである。どのような専門職や人生コースを踏むに関わらず、国民全員に自分の選択肢を開く糧であり、その人の権利でもある。公教育は基礎であり、その人の人生の根幹にある。しかし、インドでは一部の幸運な富裕層のみ最高のエリート教育を受け、残りの大多数は取り残され、社会に放り出されている。

 筆者の考えは、人権の保障や福祉の根本には、他人にたいする「慈しみ」や「ケア」や「思いやり」などの精神があると思っている。公教育を充実させることは、その国の将来を安定させると同時に、個々人が多様なライフコースを歩むための下地を確保することを意味する。そこには他者の将来に対する「慈しみ」がなければ成り立たない。いくら教育機関が設立されたところで、籠に水を汲むようなものであろう。1年半という短い滞在中で見た筆者のインド社会の表層的な部分からあえて暴言を放つと、そういう意味でインドの国民性を観察した限りでは、インド人は他人に対する関心が非常に希薄だと感じた。

 

 例えばアパートの自分の部屋は非常にきれいにする割りに、台所などみんなで共有するスペースは非常に汚いのである。食べかけのご飯がそのまま流し台近くにおいてあったり、生ごみはゴミ袋からあふれ出でて、床に落ちていようがそのままにしてある。同じように、街もごみが集積され腐乱臭が鼻にさす。またある時には屋台でご飯を頼んでいたところ、すでに食べ終わったインド人の客がゴミ箱がすぐ隣にあったにも関わらず、道にそのままゴミを捨てており、それにはさすがに閉口した。

 公共の場所や他人に対する配慮という点で、明らかに日本人とは異なる感覚を有しており、自分が利用する空間以外は一切関係のない領域と考えているようだ。自分のスペースさえ快適であればあとは他人が自分の行為で不快になろうがどうが、どうでもよいという感じの態度を何度か目撃した。筆者から見ると、インド人は他人への配慮や気遣いという概念が欠けていると見えたのだ。たかだか公共スペースの使い方のみでここまで論じてしまうのは極論かもしれないが、自分さえよければ同じインド国民であろうが関係がないというメンタリティが働いているのではないかと思うことは、節々で感じた。

 

 公共スペースの使い方だけではない。ほかにも他人への無関心を感じてしまう場面はあった。例えば、まだ「カースト」と呼ばれる身分制度や階級制度がいまだに根強く残るインドならではの、ある出来事を目撃したときだ。

 カースト制度はインドに定住したアーリア人が、先住民族ドラヴィダ人などを支配する際に階級を分化させていたことに端を発する。バラモン(僧など)を筆頭に、クシャトリア(貴族、軍人など)、バイシャ(商人など)、スードラ(農家など)とピラミッド上に身分が分けられていった。この4つのカテゴリーの中でも、同じ身分のなかで更にサブグループに分けられている。同時にカースト制度によるヒエラルキーのさらに下には、不可触民と呼ばれる人々が位置付けられ、過酷な労働を強いられていた。生まれた階級に応じて職業や身分が世襲されてきたが、1950年に発効されたインド憲法にはカーストによる差別を禁止することを定めた。現在では、公務職や大学の入学に一定の数の特定カーストを採用するなどの、アファーマティブアクションも取られており、徐々にではあるがカースト制度の影響は薄れてきているとは言えよう。しかし、いまだに社会経済的なステータスとカーストの間に深い相関関係が見られるのも事実だ。インドの企業取り締まり役員の90%以上が高カーストに属し、バラモンは全体人口の16%しか占めていないにも拘らず、役員全体の45%がバラモン出身者で固められていた(Dreze&Sen、2013)。統計は、このような生まれながらによるライフチャンスの差を如実に物語る。

 

 さて、カーストによる身分制度が根強く残るインドだが、姓でどのカーストに位置するかがある程度分かってしまうらしい。このため高位カーストにとっては自分の氏名は勲章、逆に低位カーストにとってはスティグマになってしまう。中には、大衆からの無慈悲な視線から逃れるため、高位カーストの姓に変える人もいる[1]

 このようにあからさまな差別の根拠になってしまう名前について、インド国内で何か抵抗運動や、是正する措置が行われているのかを、自身がバラモンであるインド人同僚に尋ねてみた。すると私の質問の意図が掴めないらしく、彼女は怪訝な顔をして

「なぜそのようなことが必要なの?自分たちの名前なんだから、それに誇りを持つべきよ」

とさらりと答えた。

 高位カーストに生まれた彼女は、被差別者にとって自分の名前がその社会でどのような意味を有するのか考えたことがなかったのだろう。他者に対する想像力が欠けていると感じてしまった一瞬であった。

 

 既に50年以上前になってしまうが、小田実が自身の海外放浪の旅行記を綴った著書「なんでも見てやろう」のなかで、彼がインドで貧乏旅行しているときに、現地の富裕層がまるでそこに存在していないかのように、乞食の隣をひらりと華麗に通り過ぎていったことを目撃するエピソードがある。ここに小田はインドの前途多難な将来を案じるわけだが、インドがより輝かしい未来を得るには、金持ちが自国の貧困や貧民に対する問題意識の覚醒が必要だと説いていた。すでに半世紀以上たった今でも、筆者の目からすれば既得権を得たある一部の国民はまだまだ覚醒していないように見える。「自分さえよければ、同じインド国民であろうが関係がない」というメンタリティがそこここで感じられた。

 

 他者への思いやりがないということは、とどのつまり、物事の枠組みを自分以外の視点で見ることができないということだ。他人がどのような劣悪な環境でまとな教育を受けていようがいまいが、自分の子どもが私立学校でよい教育を受けれさえすれば、関係ないというスタンスに走る。インドの公教育制度がよかろうが悪かろうが、子どもを海外に留学させればよいという風になってしまうのではないか。

 そう考えると、今後ますます増大するインドの若者でまともな仕事に就き、消費を牽引するのは、ほんの一部の限られたグループになるのではないかと予想する。大半の者が仕事にあぶれ、低廉なスキルの低廉な給料の仕事に就かざるを得ない気がしてならない。

 若者への教育の失敗は後で、重い社会保障の負担や、社会秩序の乱れ、治安悪化などのさまざまな形で国民全体にしっぺ返しが来る。国民一人ひとりが他者への配慮が「覚醒」しない限り、エコノミストが期待するほどに今後インドは経済発展しないというのが、筆者の持論である。

 

[1] The Wall Street Journal   For India’s Lowest Castes, Path Forwards is ‘Backward’.

http://www.wsj.com/articles/SB10001424052970204903804577080700006684514