インドの将来性に対する疑問-現地採用日本人の視点

しかし初等・中等教育の普及は諸外国と比べ大きな遅れを見せている。

 改めて言うまでもなく、経済発展と国民教育は密接に関係する。本書の趣旨から脱線するが、今後のインド経済を占うために、インドの教育事情を概観してみたい。

 インドの教育制度は州による若干の違いはあるものの、5・3・2・2制度であり、インド憲法で最初の8年間は無償義務教育が定められている。しかし、内実は教育が万人に施されているとは言い難い。インドでは連邦政府と州政府の両方が教育実施の責任を負っているが、財政難などを理由に州政府が義務教育を履行するように厳しく処置をしてこなかった。実際に筆者は何人ものインド人同僚に義務教育期間を尋ねてみたが、人によって答えがばらばらであり、要するに彼らも教育を受ける権利についてはっきりと理解していなかった。なので個々人による教育を受けた年数が異なっており、義務教育期間中のドロップアウトや未履修も珍しいものではない。

 さらに学校教育の質および教員の質の低さも問題視されている。残念ながら日本ではあまり考えられないことだが、学校に来なかったり、授業に遅れたりと教える気のない教員が後を絶たないという実態が浮かび上がる。ある調査では、公立学校の現状を把握するために、インド全土計3700校に対して抜き打ち調査が行われた際、約4分の1の教員が学校を欠席しており、いくつかの州では教員の2割ほどしか授業をしていなかったというショッキングな結果も出ている(Kremer他、2005)。

 

 IT分野で活躍するエリートインド人のイメージとは裏腹に、万人への教育という意味で初等・中東教育制度には多くの課題があり、決して低い割合ではないインドの子供たちが、十分な教育を受けないままに社会にでている。一般的なインドの教育レベルについて概観しよう。

 

 約57万人の地方の子どもたちを対象に教育に関する調査報告書であるThe Annual Status of Education Report 2014によると、クラス 5 (日本の小学校5年生にあたる)の地方の学校に通う生徒の約半分はクラス2で習う文字や簡単な文章が読めない。公立学校に通うクラス2の子供たちで文字を識別することさえできない生徒の割合は、32.5%に上り、2010年の調査の13.4%から増加してしまった。さらに、インドといえば「ゼロ」に関する基礎概念が生まれた地であり、「20X20」まで掛け算を教えることで日本でも有名である。そのため算数や数学に強い国民であり数学教育は徹底しているイメージがあるが、内実はそうでもない。同調査では、クラス2で習う52-24=28というような単純な引き算も、約半数のクラス5の生徒は解けない結果が出た。

 基礎教育が確立されていないインドでは、労働に最低必要な基本的な能力に欠けた労働者が数多くいる。例えば2009年-10年の時点で、全労働人口のうち約3人に1人が非識字者であり、女性労働者の場合は、52.5%、つまり半分以上は読み書きができない状況であった(Thomas,2012)。人材不足ながら、公教育水準が低いために必要なスキルを持つ人材確保に苦労しているという矛盾もでている。

 インド国内で若者から圧倒的な支持を得る作家のChetan Bhagatは自身のエッセイで、都市の教育が充実している私立学校では、2-3年間で習得してしまうような単純な文章や算数が地方学校生徒の約半数が6年間の学校教育のなかで理解していない状況に危機を呈している。地方の学校教育を改善することは国の喫緊の課題であり、改善に失敗した場合に、今後10、20年に無尽蔵の教育もスキルもない若者が失業にあえぐと注意を喚起している(Bhagat, 2015)。

 さまざまな調査で貧弱な公教育の実態が露呈されている一方で、一部の年の富裕層は、最高の環境が整った私立学校に行かせ教育を受けることができる。一部の「超エリート層」と「その他大勢」の国民の間に質と保障の面で教育格差がある。世界中から賞賛を浴びるインド教育は一部エリート層が受けている教育のみに限った話だと考えるほうがいいのだ。

インドの将来性に対する疑問-現地採用日本人の視点

 世界を席巻する経済発展が期待されるインドではあるが、それも増え続ける若年人口が技能や教育を受け、高い生産性を生み出し、消費者として購買力ある場合を前提としてている。もし教育の普及に失敗し生産性の低い労働者や失業者が増えた場合には、社会保障によって彼らを養生しなければならず、これは国にとって大きな負担となる。巨大な若年人口を抱えるインドでは、政府は慎重な経済政策の舵取りをしなければならない。

 しかしインドの実相を俯瞰すると暗澹たる未来像が浮かんでくる。インドの経済発展の岐路が特殊であり、また富の分配がすべての国民に行き渡っているわけではないからだ。 

 通常、日本、韓国、中国などが経験したように、国の産業構造というのは「ぺティ・クラークの法則」と呼ばれるように、農業や漁業などの第一産業から、製造業、そして資本・知識集約型産業であるITや金融業などの第三次産業と段階的に移行するのが通例である。しかしインドの場合はその法則が当てはまらない。中国と比較したときに明確であるが、1978年の時点で両国の農業従事者は労働人口全体の71%を占めていたが、それが2004年までにその割合は、インドと中国でそれぞれ57%と47%の開きがでた。製造業は労働集約型産業であるため、雇用の創出という意味で非常に重要であるが、2000年代後半には入り、インドにおいて雇用口が減っている(Thomas, 2012)。サービスセクターは雇用吸収力が低いため、雇用の受け皿としては期待できず、農業と製造業で雇用が創出されていないことから、インドの経済成長率は「雇用なき成長」が続いているといえる。今後ますます労働人口が増えるなかで、就職したくても雇用先がなく仕事にあぶれる失業者が増えることが懸念されている。

 また所得においても、産業別による所得格差が広くなっており、労働集約型産業の第一次、二次産業に従事する者の所得の伸びは、国の経済成長率に比べて緩慢であり。特に労働人口の約6割が従事し、雇用の受け皿となっている農業分野では、一人当たりGDPが93年度の1.7万ルピーから、2007年年度は2.4万ルピーにとどまる一方で、ITなどのサービスセクターでは、93年の9.4万ルピーから07年度は22.2万ルピーと約2.5倍増えた(小林、2011)。つまり、雇用吸収力の低いサービスセクターに従事する一部の労働者のみが経済成長の恩恵を享受し、全階層に分配されていないため、国民の経済格差が広がっている。

 

 加えて、優秀な人材を輩出するには基礎教育が肝心であるが、インドでは全ての国民が公教育を十分に受けているとは言いがたい現状である。確かに、教育の普及はある程度まで改善はされてきている。1991年に人口全体の52.2%の識字率だったのが、2011年には74.0%にまで上昇した。また高等教育に関しては、インドには大学とカレッジがあるが、大学では大学院の進学を前提としたカリキュラムが組まれているのに対し、カレッジは学部レベルで教育システムが編成され、そのなかで、インド工科大学のような世界的に有名な大学もあり、インドの教育カリキュラムの層の厚さを誇っている。若年人口の増加と共に高等教育機関数と就学者数は年々増加傾向にある。1950年には大学数は30校だけだったのが、2008年には431校まで増えた。1950-51年には、高等教育に進学の生徒数は26万3000人だったが、2005年に110万にまで伸び、毎年、進学率は5.1%伸びている (Kaul, 2006)。

インド経済の優位性と懸念材料-現地採用日本人の視点

    政府間でも民間レベルでも日印連携が強化され、日本人就労者も確実に増えているインド。独立から長期に渡り、競争を妨げる社会主義経済政策をとり、低成長に留まっていたが、2000年代に入って高成長路線に離陸した。2003年のゴールドマンサックスのレポート「Dreaming With BRICs: The Path to 2050」では、今後の世界経済を席巻するであろうBRICsの一国として挙げられ、グローバル企業や投資家の熱い期待を浴びるようになった。レポートは、インドがその潜在性を開花させた場合には、2032年には日本よりも経済規模で大きくなると予想していた。実際にリーマンショック以降も内需が牽引し堅調に経済発展は進んでいる。これだけ世界的に期待をもたれているインド経済だが、その伸び代の大きさは何を根拠としているのか。大きな理由として、新中間層の増大と人口ボーナスが挙げられる。

 

 インドの人口は2015年時点で13億1000万人で、13億8000万人の中国に次ぎ第2位である。国連の人口予想では、2022年には中国を抜いて世界第一の人口をもつ国になると考えられている[1]。平均年齢が27歳の若い国であるインドは、今後30年間で労働人口は毎年1.7%増えていくと予想される(OECD, 2010)。

 豊饒なマンパワー国内総生産の増大に寄与し、堅調な経済成長が個々の労働者の経済的豊かさに貢献する。

 堅調な経済成長を経験するインドでは新中間層を生み出し、確実に自分のことを「貧しい」でも「豊か」のどちらのカテゴリーにも属さない、中産階級を自称する人々が増加している。インド国立応用経済研究所(NCAER)が2011年時点でのミドルクラスの定義は、年収が34万ルピーから170万ルピーの世帯を中間層としている。1ルピー=2円で換算した場合、稼得収入が68万円から340万円の世帯がミドルクラスに分類されることとなる。その定義を基にすると2011年には3140万世帯、1億6万人が中間層にあたり、2016年までに2億6千7万人にまで上昇すると考えられている。また、2026年には中間層は5億4千700万人にまで増大すると予想されている。[2]

 可処分所得を手にした消費者は、可処分所得を手にし、購買意欲が刺激されさまざまな物を消費するようになる。中間層や新富裕層が台頭してきているインドでは、耐久消費財の市場拡大が著しくなってくる。例えば、カラーテレビ市場の年間成長率は15%以上、エアコン市場の成長率が30%に達する(苑、2013)。アメリカのコンサルティング会社、マッキンゼー・アンド・カンパニーの2007年調査では、インドが年経済成長率が7.3%を維持した場合、世帯収入は今後20年で3倍に増えると考えられ、2025年までに消費経済の規模は世界12位から5位にまで上がると言われている。日本が1960、70年代に迎えたといわれる大量消費時代を、今インドは経験していると言えるだろう。

 

[1]United Nations "World Population Prospects The 2015 Revision"

http://esa.un.org/unpd/wpp/Publications/Files/Key_Findings_WPP_2015.pdf

[2]The Economic Times  ‘India's middle class population to touch 267 million in 5 yrs’

 http://articles.economictimes.indiatimes.com/2011-02-06/news/28424975_1_middle-class-households-applied-economic-research

日本企業とインド経済の関わり-2

長期滞在日本人の増加の影響は、インド社会のさまざまな側面で現れてきている。例えば日本人コミュニティの緩やかな形成が誕生しており、それは多様な同好会の拡がりからも伺い知れる。延べ10年以上インドに駐在している、ある大手電機メーカーの現地法人社長の話では、最初にインドに赴任した90年代後半には、日本人女子の「女子会」なども定期的に開かれていたが、今では「女子会」という大きな枠組みで開くと、参加者数十人が直ぐに集まって規模が大きくなり過ぎてしまい収集がつかないものになってしまうらしい。そこで「女子ダンス会」や「女子コーラス会」などというように、細分化され、より趣味に特化した会が開かれてくるようになったと話していた。確かに、インド在住日本人向けフリーペーパー「チャロー」にはサークル活動情報が載っているが、スポーツ同好会から始まり、インドならではボリウッドダンス部などのオーソドックスなものから、日本の出身大学や、県人会、85年生まれの人のみが集う会など多彩であった。

 人の集うところにビジネスチャンスがある。日本人向けの産業も徐々に発達してきており、日系ビジネスホテルやスーパーマーケット、日本食レストランはもとより、日本での受験に対応した進学塾、スパ、クリーニング店、パソコン修理サービス、美容室、低農薬や無農薬野菜のインターネット販売なども開業されている。日系ホテルでは、日本語のNHKが時間差なしで放送されており、ホテルのフロントも日本語対応の受付係がいる。日本人向けのサービスアパートに併設されている日本食レストランので週末にランチなどに行くと、お客は日本人だらけであり店員のインド人も日本語で対応してくれるので、一瞬日本にいるような感覚すら覚える。なかには日本で食べるのと遜色のない質の料理とサービスを堪能できる店もある。

 

 ただしそのような日本人向けビジネスの大半は主に駐在員向けである。インドの日本人社会で、現地採用はプリゼンスが低いことと可処分所得が少ないので、まだまだ規模の小さい日本人向けの現地市場では、顧客層として見られていない節がある。例えば、インドの無料日本語情報誌「チャロー」のリサイクルショップの宣伝文句には、「外交官や大使館員、駐在員の皆さまのためにガレージセールやオークションを開催しています。」と出ていた。そこに現地採用を含めその他日本人については、顧客ターゲットからは完全に外されている。あくまで資本を持つ上記三つのカテゴリーに属する者だけに焦点を絞った商売が展開されており、日本人富裕層に特化したビジネスは存在するが、現地採用をターゲットにしたものはまだ誕生しておらず、現地採用は日本人向け市場のインビジブル(不可視)な存在だといえよう。

 

 さて、駐在員や経済的に余裕のある日本人対象のビジネスが発展し、日本人にとっても住みやすい生活が徐々に整備されてきているインドだが、それでも隣国のアジアと比べるとまだまだ小規模で細々としたものである。後述するだが、1980年代のプラザ合意からすでに製造拠点になっていたタイや、税制優遇を通じ外国企業を誘致し立国したシンガポールなどと比べると、インドは日本人にとっての生活インフラが十分整っているとは言い難い状況である。できるだけ日本にいたときと遜色のない生活をするため、インド出向の駐在員たちは定期的にシンガポールやタイなどのアジア隣国に渡り、生活に必要なものを買出ししている。日系企業の事業展開が早かったこれらの国は、今やその国だけではなく、アジア全体の「駐在員の生活保養ハブ地」となり日本の駐在員たちを支えているのだ。インドを含めた近隣諸国駐在の勤労者をターゲットにしたビジネスがタイやシンガポールで登場しており、日本人対応の病院や冷凍した日本食を提供するシンガポールの企業など、アジアに住む日本人を対象にビジネス展開が急速に発展している。

日本企業とインド経済の関わり

磐石な経済成長率を見るインド経済に、大いに日本企業も注目している。ここからは、現在までの日本企業のインドで事業展開の歴史を少し整理してみたい。

 まずインドで成功した日本企業の代表例としては、自動車会社のスズキである。第5代、8代首相のインディラ・ガンディーの息子、サンジェイ・ガンディーが創業し国有化されていたマルチと日本企業のスズキが合弁企業を設立した。市場開放に着手する10年以上も前の80年代始めにインドに進出したスズキは、現地部品メーカーと日系部品メーカーの技術提携や合弁事業を支援し、同社の品質基準を満たすサプライヤーの育成に大きく寄与し、インドの自動車産業発展に貢献した(浦田他、2010)。現在では自動車産業のシェアの半分を占め、圧倒的な存在感を示す。インドでも毎年モーターショーが開かれるが、筆者の就労地のニューデリー近郊のノイダでショーが開かれた際、日本から参加したスズキの出張者が「インドでスズキの存在って大きいだね。日本じゃありえないけど、スズキの車が多く並べられていた」と感慨深げに話していた。

 先見の明あって一足早く進出したスズキに習えと、90年代に自動車メーカーとその下請けメーカーが相次いで進出。しかしその後は日本企業の直接投資は停滞する。2013年時点で日本がインドに直接投資した合計額は投資先全体の1.5%程度に留まった(The Economist Intelligence Unit Limited, 2015)。しかし2008年の金融危機以降は、再び直接投資熱が加速している。

 投資額の増大と同時に、インド進出パターンも多様化している。これまでは日本企業は進出のステップとして、販売から現地製造、合弁から出資比率を拡大するという戦略が通例であった。しかし近年は大型M&Aの動向も活発化し、既存の地場企業を買収して市場進出を図る動きも見せている(浦田他、2010)。代表例としては2007年のパナソニックによる電設最大手アンカー買収、2008年の野村證券のリーマンブラザーズ・アジアの買収、2009年の第一三共のラクシンバラー買収などで、業界を問わずインド市場の開拓を進めている。

 

産業別では、鉄鋼業で新日鉄とタタ・スチールや住友金属とブーシャンなど大規模な合弁事業が次々と発表されており、業界への注目を喚起している。同時に、低所得者や貧困ラインより上の階層に向けたBOP(ボトム・オブ・ザ・ピラミッド)ビジネスも市場開拓が進んでいる。たとえば、インドのスーパーでよく見かけた日清食品のカップラーメンなどもその一つである。

また、ホンダやスズキなども低価格のオートバイや自動車販売の販路を拡大しており、農村の消費者を市場に取り込む企業努力を重ねている。エネルギーの利用効率が極めて低いインドで、環境ビジネスに対する日本企業の事業拡大も目覚しい(浦田他、2010)。

                       

 現在までに約750社の日本企業がインドに進出しており、それぞれの主要都市で業種による緩やかなニッチが形成されている。外務省の海外在留届によると2013年時点で現地法人企業は2340社[1]に達す。これに加え出資はしていないが、支店や駐在員事務所などを構える数を加えると、日系企業数は2510社の前年比で146%増と激増しており、近年のインドへの企業展開の高さを物語る。

 東洋経済によると2012年にインドへの新規進出を果たした現地法人数は40件で、その年の世界進出国の第6位にランクした[2]。日本企業の海外事業進出を支援する国際協力銀行JBIC)によると、2014年に日本の製造業企業を対象にしたアンケートでは、10年後の魅力的な事業展開先としてインドが1位に立っており、企業の成長の切り札のように考えられている。実際に、某大手人材派遣会社の日系企業担当者は、現在毎年約130社増のペースで日系企業がインドに進出していると言われており、日増しに日本企業の投資熱は上がっている。

当然のことながらインド在留邦人数も増加している。2014年に3ヶ月以上のインドに在留する邦人は8313人で、5年前の2009年には4501人と比べ約185%増加している。その多くが民間企業関係者で長期滞在している者であり、ニューデリーとその周辺に集住している。

 

2010 浦田秀次郎、小島眞、日本経済研究センター編著  「インド-成長ビジネス地図」日本経済新聞出版社

[1]日本企業が100%出資+インド企業と合弁企業+法人が海外に渡って興した企業の総数

[2]東洋経済オンライン

最新「海外進出先ランキング」トップ50 中国のシェア低下の一方で急浮上するインドネシア

http://toyokeizai.net/articles/-/15578

インド経済の現在までの概観

 1947年にイギリスより独立を果たしたインドは、ソ連を中心とする東側諸国の共産主義とアメリカを中心とする西側諸国の資本主義のどちらにも属さない、第三世界の中心的な存在として立国する。インドがそれまでのイギリスを宗主国として垂直貿易を展開していたが、国際関係のなかで貿易に頼っては安定的な経済を発展できないとの考えにより、初代首相ネルーは海外からの供給に頼らず経済を律する政策を採る。そこで経済発展のため、若しくは最低生活水準に必要不可欠なものだけを輸入し、貿易に頼らない鎖国的経済発展路線を歩んでいった。

 

 では国の内部の経済政策はというと、独立からつい最近までインドは社会主義的な経済統制で工業化を図っていた。この点でお隣の大国中国とよく比較されるのだが、中国との大きな違いはインドが民主主義国家であることだ。1940年代から民主主義制度を採用している一方、社会主義政策を進めるという、ユニークな政治経済体制を採っていた。どの地域においても国民全体に経済成長の恩恵が配分されるように、政府が計画的に経済を先導していったが、その政策の一環として1951 年の産業(開発・規制)法により産業ライセンス制度が開始された。この制度により、事業を施行する際には、政治家や官僚から逐一許可を取得することが義務付けられるようになるが、これがライセンス・ラジ(License-Permit Raj: 許可による統制)と呼ばれ、民間企業のインセンティブを阻害する結果となる。さらに官僚や政治家が過大な権限を手にしたことで、賄賂やロビー活動が跋扈するようになった。

 

 1951年第一次5カ年計画から緩やかに伸びていた経済成長率は、1960年の中盤で20世紀例に見ない規模の旱魃に見舞われるとともに、1965年には対パキスタン戦争が勃発し、経済的に大きなダメージを受ける。さらに、続く1970年代においても、再び1971年にパキスタンとの戦争や旱魃被害によりGDPは鈍化する。65年から70年代までは農業セクターが国の経済に大きく影響を与える産業構造であったため、天候や政治の不安定性により年平均3%の低成長に留まった。  

 経済成長率が上向きになったのが1980年代である。緑の革命での成果が出始めたことで農業分野が好調だったのと、社会主義型経済の見直しによるものが大きい。60年代に権威主義的に開発経済の色を強化していったインディラ・ガンディー首相は、東アジア諸国NIESが経済を発展を尻目に自国の鈍重な工業化を憂慮し、80年に首相に返り咲くと自らが規制していった方針を次々に緩和させていく。資本財・中間財の輸入制限が緩和され、自動車や電子機器産業の規制撤廃され、82年にはスズキが政府との合弁で自動車産業への参入が成立する。これらが功を奏し、年平均約5%の成長を記録した。また、この頃は比較的富が平等に分配されていた時代で、貧困レベルは都市と地方両方で下がっていく。しかし一方で財政および貿易赤字、海外債務が膨らんだ時期でもある。

 1985年には外貨準備高を切り崩し、短期商業債務を要請しなければならなくなる。加えて、90年から91年に湾岸戦争が勃発すると、石油価格の上昇でさらに貿易赤字が悪化するとともに、中東から出稼ぎ労働者の送金額の減少で経常収支が悪化する。インドは債務を回収させることができず、91年初頭にはわずか数週間分の輸入への支払いしか国庫に残されていない状態になり、国際収支危機に陥る。

 同年ナラシマ・ラオ政権が成立すると、後に首相になる財務相であったマンモハン・シンはこの危機を好機ととらえ経済改革に着手する。IMF世界銀行に融資を求め、その引き換えに91年から93年の間に経済変換パッケージを受け入れ、開放政策を次々と進めていった。財政支出削減や金融引き締め、ルピー引き下げなどのマクロ経済安定化と構造調整を組み合わせた。

 インドが計画経済を改めた91年というのは、奇しくも社会主義を牽引してきたソビエト連邦が崩壊した年でもある。これは東側諸国の、つまり政府が計画して経済を統制する社会主義が資本主義に敗北したことを意味していた。ソビエトの崩壊前にも、すでに中国では開放政策を実施しており、80年代は特に西側ではイギリスのマーガレット・サッチャーやアメリカのロナルド・レーガンが主導で新自由主義が進められていた。雇用や景気を安定させるためには政府の積極的介入という考えにより、ケインズ主義を支持していた国でも、新自由主義を説くミルトン・フリードマンなどの考えが勃興していた時期であり、そのなかでインドは経済の自由化と市場開放政策が成されていくこととなったのだ。

 2000年以降になると、海外や国内の投資が生産に直結し企業の内部留保や所得増により、国民の購買力が高まる。それと同時に、競争率によるサービスの向上やメディアの普及などを背景に、消費意欲が刺激され高成長の軌道に乗り始めた。高成長2000-2001年から2010-2011年にかけてGDPは7.6%成長した。中国や日本のように年間10%以上の経済成長が爆発的な経済成長を遂げるわけではないが、過去20年間で中国に続き第2位の経済成長率を誇るように、昨今の安定したGDPの伸長は著しい。2008年に発生した世界的不況時にも成長を果たすなど、今や世界経済を牽引するプレイヤーの役割を担っている。 

 最近では日印政府間レベルでの経済関係の親密さは増している。91年のインド経済自由化後も2003年までは年間40億ドル弱で推移していた日印貿易も、2003年以降は拡大傾向にある。2006年に日印共同プロジェクト「デリー・ムンバイ産業大動脈構想」や、2011年に日印経済連携協定EPA)が発効され、2015年インドの高速鉄道案件に日本の新幹線方式が採用された。中国の経済成長が停滞するとともに、次の大きな事業拡大にふさわしい国として貿易拡大が期待されている。

現地採用という生き方- インドで働く日本人-日本企業の海外進出と現地採用の誕生2

日本企業の海外進出を支えるのが駐在員だ。もともと1980年代から本格的に海外進出を果たした日系企業だが、当初は大量の駐在員を派遣していた。しかし、コスト面で駐在員派遣はかなりの負担である日系企業の多くは、最近は駐在員数を減らし、現地採用を増やす傾向にある。ジェトロによると、日本人駐在員を派遣する場合、年間一人当たり2千万円ほどの費用がかかり、そこコストを現地事業で回収する場合には、数億円規模の売り上げが必要になるとのことだ(JETRO、2013)。

  この問題を解決するため、企業側はできるだけローカライズして現地のローカル社員を雇用し、駐在員を削減して競争力を高める必要性がでてきた。然し日系企業においては、日本語と日本の企業文化を重視するために、現地社員が日本人社員の役割を完全に引き継ぎ、経営に参画することが困難であった。そこで言語と日本のビジネスマナーに習熟した日本人労働者を、安価の労働力として雇用する現地採用の需要が発生したというわけだ。

 

 日本人現地採用の大規模なレベルの誕生は、香港を発端とする。酒井によると、1980年代半ばまでは、個人レベルでたとえば現地香港人と結婚して定住した者や、知り合い等のネットワークを介すなど、インフォーマルな形で現地雇用が行われていた。その後、潜在的な現地採用の需要を察知した日系の人材派遣会社が、ビジネスを展開したことで、エージェントを媒介に大量の日本人が香港で就労するようになる。

 このような海外就労の増加は、日本の雇用状況を反映したものでもある。1990年代に入りバブル経済の崩壊により、企業は海外に市場を拡大せざるを得なくなったのと同時に、日本の雇用機会の悪化を受けて、日本人労働者も日本で就労が難しくなってきた現実がある。前述した大石氏の著書には、日本で就職活動を続けていた大学生が幾多の企業から断られ続け内定を得られなかったため、インドネシアで仕事を得、そこでイキイキと業務に取り組む姿が紹介されていた。近年の若年層と女性を中心に増加する非正規雇用や、大学を卒業後に無事就職したところで約3人に1人が3年以内に離職する時代である。多様化した価値観も相まって、日本で就職口がないので仕方なく海外で就労するしかない、または望むようなキャリアを構築できないと感じ海外へ飛び出し現地採用となったり、または起業などしている。 

   企業が国を選ぶ時代が到来したと述べたが、労働者も働く国を選ぶ時代になったとも言えよう。個人も日本だけに留まらず、海外で就労することが物珍しい物ではなくなってきている。現に海外就労する日本人の数は増えてきている。外務省の海外在留邦人数調査統計では2014年時点で、男女それぞれ232,008人、32,276人が民間企業関係者として、海外に3ヶ月以上長期滞在している。これは10年前の2004年の男女合計民間企業関係者数の161,541人と比べ、1.6倍増加したことになる。そのうち現地採用の人口がどれだけかは分からないが、世界中で確実に増加しているだろう。

 

    さて、スタートは香港だった日本人現地採用の波は、シンガポール、タイ、マレーシア、ベトナム、中国、インドネシアなどアジアの広範囲に拡散していくなかに、インドはアジアの現地採用受入国のなかで比較的遅いほうである。人材派遣会社のパソナは、他の大手エージェントより一足先に2007年からインドで事業を開始した。日本人から見て地理的にも心理的にも遠いインドだが、元大手人材派遣会社社員で、現在は独立し、インドで日本人現地採用の人材派遣会社を起業した始めた前田氏は「今のうちに手を打って、今後のビジネス拡大の素地を作っておきたい」と、将来的にインドで働く日本人が増加することを大いに期待していた。彼の予想はインド経済のポテンシャルに裏打ちされたものだ。

 では、次に中国に次ぐ世界経済の牽引国として期待される、インドの独立から今日に至るまでの歴史を経済の視点から眺めてみよう