インドの将来性に対する疑問②-現地採用日本人の視点

 言わずもがな公教育というのは、畢竟その国がどのような国是をもち国を発展させるかに関係してくる。すべての国民に自分の選択肢を開く糧を与えることである。どのような専門職や人生コースを踏むに関わらず、国民全員に自分の選択肢を開く糧であり、その人の権利でもある。公教育は基礎であり、その人の人生の根幹にある。しかし、インドでは一部の幸運な富裕層のみ最高のエリート教育を受け、残りの大多数は取り残され、社会に放り出されている。

 筆者の考えは、人権の保障や福祉の根本には、他人にたいする「慈しみ」や「ケア」や「思いやり」などの精神があると思っている。公教育を充実させることは、その国の将来を安定させると同時に、個々人が多様なライフコースを歩むための下地を確保することを意味する。そこには他者の将来に対する「慈しみ」がなければ成り立たない。いくら教育機関が設立されたところで、籠に水を汲むようなものであろう。1年半という短い滞在中で見た筆者のインド社会の表層的な部分からあえて暴言を放つと、そういう意味でインドの国民性を観察した限りでは、インド人は他人に対する関心が非常に希薄だと感じた。

 

 例えばアパートの自分の部屋は非常にきれいにする割りに、台所などみんなで共有するスペースは非常に汚いのである。食べかけのご飯がそのまま流し台近くにおいてあったり、生ごみはゴミ袋からあふれ出でて、床に落ちていようがそのままにしてある。同じように、街もごみが集積され腐乱臭が鼻にさす。またある時には屋台でご飯を頼んでいたところ、すでに食べ終わったインド人の客がゴミ箱がすぐ隣にあったにも関わらず、道にそのままゴミを捨てており、それにはさすがに閉口した。

 公共の場所や他人に対する配慮という点で、明らかに日本人とは異なる感覚を有しており、自分が利用する空間以外は一切関係のない領域と考えているようだ。自分のスペースさえ快適であればあとは他人が自分の行為で不快になろうがどうが、どうでもよいという感じの態度を何度か目撃した。筆者から見ると、インド人は他人への配慮や気遣いという概念が欠けていると見えたのだ。たかだか公共スペースの使い方のみでここまで論じてしまうのは極論かもしれないが、自分さえよければ同じインド国民であろうが関係がないというメンタリティが働いているのではないかと思うことは、節々で感じた。

 

 公共スペースの使い方だけではない。ほかにも他人への無関心を感じてしまう場面はあった。例えば、まだ「カースト」と呼ばれる身分制度や階級制度がいまだに根強く残るインドならではの、ある出来事を目撃したときだ。

 カースト制度はインドに定住したアーリア人が、先住民族ドラヴィダ人などを支配する際に階級を分化させていたことに端を発する。バラモン(僧など)を筆頭に、クシャトリア(貴族、軍人など)、バイシャ(商人など)、スードラ(農家など)とピラミッド上に身分が分けられていった。この4つのカテゴリーの中でも、同じ身分のなかで更にサブグループに分けられている。同時にカースト制度によるヒエラルキーのさらに下には、不可触民と呼ばれる人々が位置付けられ、過酷な労働を強いられていた。生まれた階級に応じて職業や身分が世襲されてきたが、1950年に発効されたインド憲法にはカーストによる差別を禁止することを定めた。現在では、公務職や大学の入学に一定の数の特定カーストを採用するなどの、アファーマティブアクションも取られており、徐々にではあるがカースト制度の影響は薄れてきているとは言えよう。しかし、いまだに社会経済的なステータスとカーストの間に深い相関関係が見られるのも事実だ。インドの企業取り締まり役員の90%以上が高カーストに属し、バラモンは全体人口の16%しか占めていないにも拘らず、役員全体の45%がバラモン出身者で固められていた(Dreze&Sen、2013)。統計は、このような生まれながらによるライフチャンスの差を如実に物語る。

 

 さて、カーストによる身分制度が根強く残るインドだが、姓でどのカーストに位置するかがある程度分かってしまうらしい。このため高位カーストにとっては自分の氏名は勲章、逆に低位カーストにとってはスティグマになってしまう。中には、大衆からの無慈悲な視線から逃れるため、高位カーストの姓に変える人もいる[1]

 このようにあからさまな差別の根拠になってしまう名前について、インド国内で何か抵抗運動や、是正する措置が行われているのかを、自身がバラモンであるインド人同僚に尋ねてみた。すると私の質問の意図が掴めないらしく、彼女は怪訝な顔をして

「なぜそのようなことが必要なの?自分たちの名前なんだから、それに誇りを持つべきよ」

とさらりと答えた。

 高位カーストに生まれた彼女は、被差別者にとって自分の名前がその社会でどのような意味を有するのか考えたことがなかったのだろう。他者に対する想像力が欠けていると感じてしまった一瞬であった。

 

 既に50年以上前になってしまうが、小田実が自身の海外放浪の旅行記を綴った著書「なんでも見てやろう」のなかで、彼がインドで貧乏旅行しているときに、現地の富裕層がまるでそこに存在していないかのように、乞食の隣をひらりと華麗に通り過ぎていったことを目撃するエピソードがある。ここに小田はインドの前途多難な将来を案じるわけだが、インドがより輝かしい未来を得るには、金持ちが自国の貧困や貧民に対する問題意識の覚醒が必要だと説いていた。すでに半世紀以上たった今でも、筆者の目からすれば既得権を得たある一部の国民はまだまだ覚醒していないように見える。「自分さえよければ、同じインド国民であろうが関係がない」というメンタリティがそこここで感じられた。

 

 他者への思いやりがないということは、とどのつまり、物事の枠組みを自分以外の視点で見ることができないということだ。他人がどのような劣悪な環境でまとな教育を受けていようがいまいが、自分の子どもが私立学校でよい教育を受けれさえすれば、関係ないというスタンスに走る。インドの公教育制度がよかろうが悪かろうが、子どもを海外に留学させればよいという風になってしまうのではないか。

 そう考えると、今後ますます増大するインドの若者でまともな仕事に就き、消費を牽引するのは、ほんの一部の限られたグループになるのではないかと予想する。大半の者が仕事にあぶれ、低廉なスキルの低廉な給料の仕事に就かざるを得ない気がしてならない。

 若者への教育の失敗は後で、重い社会保障の負担や、社会秩序の乱れ、治安悪化などのさまざまな形で国民全体にしっぺ返しが来る。国民一人ひとりが他者への配慮が「覚醒」しない限り、エコノミストが期待するほどに今後インドは経済発展しないというのが、筆者の持論である。

 

[1] The Wall Street Journal   For India’s Lowest Castes, Path Forwards is ‘Backward’.

http://www.wsj.com/articles/SB10001424052970204903804577080700006684514